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国学院大・大石教授に聞く新元号「令和」 引用元の万葉集も博物館に展示

展示されている「万葉集」巻五

展示されている「万葉集」巻五

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 新元号「令和」の文字の引用元となった「万葉集」巻五が現在、国学院大学博物館(渋谷区東4、TEL 03-5466-0359)で開催中の企画展「和歌万華鏡-万葉集から折口信夫まで-」会場に展示されている。展示するのは江戸時代に活字化された版本の一つで、1643(寛永20)年版の「寛永版本」。同大図書館が所蔵する。

大石泰夫文学部教授

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 「万葉集」巻五の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の序文「初春の令月にして 気淑(よ)く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」から引かれた「令和」の文字。「万葉集の民俗学」「万葉民俗学を学ぶ人のために」などの著書がある大石泰夫同大文学部教授に話を聞いた。

 第一印象について、「万葉集という日本の書物から元号を取るのは喜ばしいこと。元号は中国の皇帝に関わるものとして中国で始まり、日本では大化から始まる。それは日本が中国から法制度を学んで定着させていく中、日本の国家体制が中国的なものとして定まっていった中の一つのことが今日までずっと続いてきた。平成までは、中国の出典から取って定めてきたが、それを今回、日本独自に生み出してきた文字文化を出典にしようと考えたことは大変喜ばしい」と話す。

 「令和」の文字については、「言葉としてはすてき。爽やか。序文の冒頭、春令から令を取って、和やかの和を取る。きれいですね。熟語でなくて、離れたところから言葉を取る。言ってみれば独自の熟語を作る。面白いところから取ったなと思う」と感想を明かす。

 さらに、「そもそも梅は外来の植物」と続ける大石教授。「最古の日本漢詩集「懐風藻」の中に収められている、葛野王(かどののおおきみ)が詠んだ詩の中に出てくる梅がおそらく一番古いものと思われる。葛野王が706年に死んでいるので、そこからあまりさかのぼらない時の作。葛野王は大友皇子(おおとものみこ)の子、天智天皇の孫。梅は万葉集では、飛鳥時代の歌には一首も詠まれておらず、大伴一族とその周辺の人たちが好んでたくさん詠んだため、万葉集の中では萩に次いで梅が二番目に数が多いが、決して広く多くの人に詠まれた植物ではない」という。

 「中国に楽府という詩の形式があり、その中に「梅花落(ばいからく)」という、梅の花が落ちることを詠む一連の詩があり、万葉の歌人たちはよく知っていたと思われる。中国詩の内容を和歌に取り入れて作ることが大伴一族とその周辺の人たちに好まれた。大伴旅人(おおとものたびと)が大宰帥(そち)として大宰府に行った時、中国の詩を詠むことができて日本の和歌も詠めるような優秀な文人が集まって、大宰府に植えられた梅を題材にして、梅の花をみんなで愛(め)でる歌を作ろう、というようなことを中国の詩の形式をまねてやったんだと思う」

 万葉時代の文学をどう見ているか。「この時代の文学はとてもグローバル。中国の文学を学び、自国の和歌の世界にそれを取り込んでいく試みをした時代。このあり方は、ある意味その後の日本文化のあり方同様、とても日本的」と受け止めている。

 学者として危惧(きぐ)することについても触れる。「梅の花は知識人が愛した花。とりわけて大伴一族の人たち。奈良時代までの日本人が最も愛した花は梅だったと、よくいわれるが、それは明らかな間違い。万葉集の中で一番多いのは萩で、二番目が梅。奈良時代にならないと一首も詠まれない。庶民は梅の花を見ていない可能性が相当高い。日本の花は、奈良時代までは梅で、平安になってから桜になる、ということがテレビでもいわれているが、それは大きな間違い」。改元を機に、そうしたイメージが広がってしまうことに危惧の念も抱く。

 和歌を守り伝えた人々や書物に焦点を当て、古代から近代に至るまでの歌書を通して和歌の魅力を伝えている同展。「万葉集」版本にも多く人が足を止めて見入っている。開館時間は10時~18時。入館無料。5月27日は休館。6月23日まで。

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