特集

静かに変貌する“裏青山”ゾーン
「骨董通り」ストーリー

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■「骨董通り」誕生の背景

国道246号(青山通り)青山5丁目交差点から、六本木通り高樹町交差点を結ぶ一本道は、「骨董通り」と呼ばれ、今日では地図にも表記されるほど定着している。正式には港区南青山5~6丁目が「骨董通り」周辺の住所。「骨董通り」はかつて「高樹町通り」(旧名高樹町)と呼ばれ、今日でも交差点名と首都高速「高樹町ランプ」として町名は残っている。「青山」の地名は徳川家康の譜代の重臣、青山忠成が原宿村を中心に赤坂の一部、上渋谷村にかけて屋敷地(青山家の屋敷跡は現在の青山墓地)として拝領したことに始まる。明治の初めまで、庶民は当地を「青山」と呼び、明治以降「青山通り」の北側を青山北町、南側を青山南町と呼び、やがて今日の北青山、南青山の地名となる。「骨董通り」という呼称は、いかにも昔からあったように思わせる絶妙のネーミングだが、実は歴史は浅い。

「骨董通り」の名付け親は、「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)の鑑定士として全国区の知名度を持つに至った古美術商でエッセイストの中島誠之助氏である。骨董店が集積していた南青山に1976年、「からくさ」の屋号で古伊万里専門店を出店(2000年撤退)。1980年代初めに骨董店のPRを兼ねて、中島氏は青山5丁目交差点から、六本木通り高樹町交差点を結ぶ通りを「骨董通り」と命名。さらに、通りの呼称を浸透させるためにエッセイで通りを紹介する一方、『南青山骨董通り』(歌/真咲みどり)の作詞を担当するなど、普及に務める。呼称が浸透し始めたのは、1980年代後半、女性向けのブティックが骨董通りに進出し始めた頃。ファッション誌や情報誌が誌面で「骨董通り」を使ったことで認知が広がる。もともと青山・表参道エリアは1970年代に「NICOL」「BIGI」、80年代に「コム・デ・ギャルソン」「ヨージ・ヤマモト」など時代を先導するショップがいち早く出店した場所。表参道を軸に青山墓地側には限界があるため、エリア的には「骨董通り」側に広がりを見せ先端カルチャー・ゾーンを形成していく。

南青山5~6丁目に多くの骨董店が集まったのは1950年代半ば。国宝や重要文化財等を含む東洋古美術を展示する「根津美術館」がこの地にあったことがその理由。“鉄道王”の名称をいただく、東武鉄道の創始者である根津嘉一郎氏が収集した東洋古美術品が蔵品の基幹を成している。同美術館は、根津氏の旧邸を開放する形で1940年に創設、1941年に開館した。1945年の戦災で展示室や茶室など、大部分を焼失するが、1954年に美術館本館が再建される。骨董店が集まり始めたのはこの頃。同館は初代根津嘉一郎氏が自らを「青山」と号する茶人であったこともあり、茶の湯道具と仏教美術に優れていることで知られる。広大な日本式庭園には茶室が点在し、茶会も開かれてきた。当時、同館の正門は骨董通り沿いにあり、同館を訪れる茶人や趣味人を相手に、次第に器や茶道具、掛け軸などを扱う骨董店が増え“門前町”ならぬ“館前町”が形成されていく。根津美術館はその後、1964年の増築、1990年の増改築により、今日の姿になる。1976年、前出の中島誠之助氏が「からくさ」を出店し、やがて抜群の知名度を得るようになったことから“骨董通りの骨董店”というブランドが生まれ、骨董店の集積地である通りを目指して、1970年代末に再び骨董店が増加した。

根津美術館
根津美術館

■激減する骨董店、増加するリサイクル・ショップ

「骨董通り」の中程にある創業20年のそば屋「春日家」では、「この通りは骨董通りと呼ばれながらも、実は骨董店はそれほど多くない。店を開いて20年、ずっと骨董通りを見てきたが、骨董店は増えるどころか減っている」という。1950年代後半に60~70店もあった骨董店で今日でも店を開いているのは約40店と言われているが、骨董専門誌「骨董ファン」(発行/西洋堂)編集部によると、「すでに骨董通りに骨董店は40軒もないのでは」と話す。「最近の傾向として、一般客が個人の骨董店に出向くということ自体が減っている。一方でデパートにアンティークモールが開店し、人気を集めているので、骨董自体の人気が下がったのではない。骨董通りの骨董店が減った要因は他にあるようだ」(編集部)。

骨董ファン

それでは、「骨董通り」のシンボルとも言える骨董店が激減した理由は、一体どこにあるのだろうか。特定の顧客だけを対象とする骨董店は、個人事業が多い。骨董商は、特別な修業を通して“目利き”の力を養い、ある程度の経験や年齢に達していなければ店を開いても顧客の信頼を勝ち取れない難しいビジネスでもある。1950年代半ば以降「骨董通り」に出店した店主の多くは、今日ではすでに現役を退いているケースが少なくない。

また、一方で、50年の間に起った地代の高騰も要因といえる。骨董通りに店を構える骨董店の多くは家賃を払って店を運営してきた。地価の高騰も、骨董店の経営に大きくのしかかる。骨董通りから一本折れた場所にリサイクル・ショップを構えるオーナーは「南青山ではバブル期に地価がぐんと上がり、その後、少し下がったが、近年また上昇している」と話す。都心商業地に端を発した急激な地価上昇が起ったのが、今日“バブル直前”と称される1980年半ば。特に地価変動が著しかったのが、都心3区と呼ばれる、港区・中央区・千代田区である。東京都の土地調査報告書の「個人・法人別土地資産所有割合の推移」によれば、バブル期、バブル崩壊期を通じて法人が所有する割合の増加が顕著となっている。南青山もその例にもれず、“バブル直前”からバブル期に至る期間に、路面のほとんどの物件は、法人の所有となった。これにより路面に進出することのできるショップは大資本に限られるようになったとも言える。小資本の個人事業主である骨董店が1980年代末から1990年代にかけて、高騰し続けた家賃を払い続けることを断念したことも想像に難くない。南青山の世帯人口数も1980年代より減少を続けていることを照らし合わせるなら、南青山は1980年代に「住む街」から「訪れる街」「仕事をする街」へと変貌したのである。

2002年3月に国土交通省より発表された、2002年1月1日時点の全国の地価を表す地価公示価格によると、全国の地価変動率は、住宅地が前年比-4.2%、商業地が同-7.5%となり、ともに10年連続の下落となっているが、大都市圏の下落幅は縮小し、特に渋谷区、港区ではIT関連、外資系企業などによる根強いオフィス需要が顕在化したこともあり、地価が上昇する地点が増加した。国内の大手メーカーや外資系企業が集まる南青山は、まさにその中心地である。特定の顧客だけを相手にする骨董店は、世代交代がうまくいかず、地価の高騰により、「骨董通り」から徐々に撤退していった。

しかし、一方では、商品の回転が早いショップや、確実な売上の見込める飲食店は、地価の高い南青山でも顧客数や客単価のアップよって商売を営むことが可能となった。商業の集積地へと変貌した表参道の動員力も伸びている。2000年度、地下鉄の1日の平均乗客数(営団地下鉄調べ)は、「青山一丁目」75,000人(前年比18%増)、「外苑前」約67,000人(前年比2.8%増)に対して「表参道」は約122,000人(前年比3.2%増)。原宿や渋谷から徒歩で南青山に入る人数を加算すれば、表参道~南青山エリアは確実にひとつの商圏を築いていることがわかる。

骨董通りと表参道の間のエリアに、1990年代半ばから今日までに急増したのがリサイクル・ショップ。骨董通りと根津美術館を結ぶ通りに店を構えて19年になるブランド品のリサイクル・ショップ「ヴィンテージ・クローズ」は、南青山の草分け的存在。同店の並びには近年「ジル・サンダー」が進出し、高級ブランドストリートとなりつつある。店主の大橋さんは「ここ5、6年の間にブランド品を扱うリサイクル・ショップが急増した。当初は当店だけだったが、今では20店以上のリサイクル・ショップが出店している」と話す。原宿や渋谷の古着屋やリサイクル・ショップと異なるのが、顧客筋と年齢層。「目の肥えた顧客が多い。当店では顧客年齢は平均40歳。下は20代から上は60代と幅広いが、共通しているのは経済的に余裕のある方ばかりである点」と説明する。顧客は政治家、芸能人、上場企業の社長夫人、モデルが主で、「ブランド衣料を放出する際に、『値段設定はおまかせします』という方ばかり」という。

ヴィンテージ・クローズ/TEL03-3486-1535

リサイクル・ショップも骨董店同様、店舗を開くエリアの所轄署に「古物商」の申請を届けるよう義務付けられている。南青山の所轄署である赤坂署によると「港区では古物商の認可は毎年、増加している。骨董店の数は把握していないが、リサイクル・ショップの申請数は確実に増えている」という。高級ブランドショップ、スーパーブランドの出店が相次ぐ表参道~南青山は、意外にもリサイクル・ショップの集積地にもなりつつある。同じ“古物商”でありながら、骨董店とブランドのリサイクル・ショップが明暗を分ける。

■大人をターゲットとしたフレンチとイタリアンのメッカ

2000年9月に開設した、南青山のショップやレストランなど約1,000軒の情報を網羅するポータルサイト「南青山ドットネット」を運営する「スティックワイアード」(本社・渋谷)取締役の岸浪さんは、近年の南青山の変貌を次のようにまとめる。「大人の街のイメージがあった青山だが近年、低年齢化している。原因はカフェの増加。かつては高級ブランドを買い求める街だったのが、気軽に入れる店が増えたことで一般化したようだ」。南青山は確かに現在「カフェ激戦区」となりつつある。編集担当の黒田さんは「美容院の増加も無視できない。渋谷や原宿と異なり、南青山は人口密度が低いのが魅力」と話す。青山~表参道には約400店舗もの美容院が建ち並んでいて、原宿と並び日本でも有数の「美容院激戦区」である。

「南青山ドットネット」が約6,000人の会員(20代後半~30代前半の女性)に向けて行ったアンケート調査によると、「南青山」に関心を寄せる彼女たちが興味を抱くジャンルは「ワイン」「イタリアン」「コスメ」「旅行」に集中しているという。グルメ、コスメの関心の高さはそのままショップの動向にも反映している。

南青山ドットネット

1980年代に南青山に続々進出したファッションブランドが、「大人の街」「最新ファッションの発信地」という街のブランドイメージを築いた後に進出したのが、フレンチやイタリアンなど飲食店。南青山を中心としたエリアには現在、イタリアン約80軒、フレンチ約60軒もの店舗が集まり、カフェ同様“激戦区”となっている。これらの飲食店のほとんどが1990年以降の開店。南青山“集積”の理由には、南青山が、感度の高い若い女性や舌の肥えた大人が集まる街になったことが挙げられる。バブル期には、芸能人や著名人が西麻布や南青山に「隠れ家」を探し当て、情報誌も次から次に人気店を発掘し、情報を発信していったが、1990年代以降は、流行に左右されない本格派が進出し、顧客を確実に獲得した。イタリアンでは、イタリアンの第一人者と呼ばれる山田宏巳オーナーシェフ率いる「リストランテ ヒロ」(1995年開店)や「アカーチェ」(1996年開店)、一軒屋のリストランテ「リストランテ・エノテカ」(1F)、「リヴァ・デリ・エトゥルスキ」(2F)など人気店が、フレンチでは“正統派フレンチ”の「レ・クリスタリーヌ」(1992年開店)や“フレンチの鉄人”坂井宏行プロデュース「ラ・ロシェル南青山」(1999年開店)など有名店がひしめきあっている。

今春、骨董通りから一本折れた道路の住宅地に開店した「LABURU(ローブリュー)は、オーナーシェフ、櫻井さんの自宅のガレージ兼物置を改築して完成したビストロ。路地裏という立地は櫻井さんには好都合で「裏道だが、プラスに考え、店を開いた。顧客のイメージは想定していない」と話す。高い保証金、高い家賃を払って店を運営することは選択肢になかったという。スペイン北部のバスク地方に渡り、レストランで修業した櫻井さんは「ちょうどバブル期にスペインにいたので、東京のレストランの狂乱や若い女性のブランド・ハンティングなど、まったく知らずに過ごした。骨董通りの状況も知らずに、迷わずに店を開いた」と笑う。激戦区に出店した気負いはまったくない。

LABURU/TEL03-3498-1314
LABURU(ローブリュー)

■大人のための個性派ショップが続々と集積

「骨董通り」の特徴に“カルチャー指数”の高さが挙げられる。界隈には、根津美術館を筆頭に、岡本太郎記念館、骨董店、ギャラリーなど建ち並ぶ。岡本太郎の邸宅兼アトリエをそのまま利用した「岡本太郎記念館」には、作家の村上春樹が命名したカフェ「ア・ピース・オブ・ケイク」が併設されており、人気のスポットになっている。

インテリアと生活雑貨を提案する「IDEE」の集客力も見逃せない。1979年には南青山に本社を構え、1982年に骨董通りにショップを開店。1995年に現地に店舗併設の本社を移転して以降、「IDEE」の知名度は上昇した。出版事業を開始する一方、カフェブームの先駆けとなった併設する「Cafe@IDEE」も抜群の知名度を持ち、骨董通りに若者を動員する大きな要因となっている。

岡本太郎記念館 IDEE

2001年4月、骨董通りの横道にオープンした「書斎館」は世界中の万年筆と書斎グッズを集めたギャラリーのような専門店。オーナーの赤堀さんは「万年筆自体が売れない時代にどうして万年筆の専門店を開いたのかとよく問われる」と笑う。7割は固定客で、リピーターが多いのが特徴。「現代はモノではなく、コトが大事。いいものを所有する喜びを知ってもらいたい」。店内にはカフェを併設し、「お茶を飲みながら、ここで手紙を書いてもらいたい」と話す。背後に住宅地が広がっているため、表通りの喧騒から隔絶されている。赤堀さんは「骨董通りだから出店したのでなく、単にこの場所が好きだったから。3年も経てば様相が変わる界隈だが、子供がウロウロしないのも気に入っている」と話す。

書斎館

骨董通りの周辺にはジャズのライブハウス「ブルーノート」があり、大人のジャズファンを集めている。カフェの進出による南青山の「ポピュラー化」が進む一方で、きちんとした大人のショップや“通好み”の店が支持されている点が、南青山の今日の姿とも言えそうだ。

ブルーノート
岡本太郎記念館 IDEE 書斎館 ブルーノート

■福井県と東急不動産のコラボ空間登場

4月25日、南青山5丁目に3棟からなる新たな商業施設「グラッセリア青山」がオープンした。敷地面積は約1,987平方メートル。施設名は「GLASS」と「AREA」を足した造語。現地はもともと福井県が所有していた土地で、かつては福井県の東京での宿泊施設「ふくい青山荘」だった。福井県は県有地を有効活用したビジネス支援・人材確保とイメージアップのための拠点整備事業を募集していた。コンペにより東急不動産が提案した事業計画プランが採用され、開発に至った。

同プロジェクトは、事業用借地権の活用で福井県の資金負担を少なくしているのが特徴。「プラース事業」と呼ばれる、未利用地に対して事業用借地権などを用いて事業期間10~20年程度で行う暫定利用型商業施設の開発事業手法を採用。具体的には、東急不動産と福井県との間に借地期間約20年の事業用借地契約が結ばれ、東急不動産が建物を建設し、その一部を福井県が定期借家契約で賃貸する。福井県施設の賃借料は地代とほぼ相殺するので、県としては少ない資金で施設を運営できるというメリットがある。また、借地契約終了後は建物を取り壊し、更地で県に返還する。

開発に携わった東急不動産都市事業本部SC開発部事業企画グループのグループリーダー、辻さんは「当社はもともと渋谷を起点とするデベロッパーとして、『ラ・プラース南青山』(南青山3丁目)などの物件を手がけてきた。福井県の要望として特産物を東京・青山を通じて発信していきたい、ビジネス支援の拠点にしていきたいという要望があり、他のテナントとのミキシングがポイントだった」と説明する。そこで意識して従来の箱ものの商業施設ではない商業施設を狙ったという。「感度の高い人が訪れ、住み、仕事をする南青山。また骨董通りという背景があり、福井県も日本文化の素晴らしいものを持ち合わせ、これを発信したいという意図があるので、テナントもすべて新業態で望んだ」と辻さんは話す。施設コンセプトは顧客、商品を主役とする究極の舞台の創出。南青山の閑静な住宅街の一角に開放的な広場・路地を取り巻く高級ブティック、レストラン、美容院等の店舗で構成されるコート型低層ファッション・ヴィレッジが広がる。デザインコンセプトは「南青山の宝石箱」。

店舗は物販では、「ジュン」の新ブランドで、ニューヨークテイストの洋服・小物・雑貨を扱う「オプティチュード」、 高級雑貨・家具などを扱う「カーザ デ コールシエナ」、日本人としてミラノで初めてコレクションを発表した荻野氏のブランドで、日本初の路面店となる「 アンテプリマ」。飲食では飲茶・カフェレストランの「遊仙(ヨウ・シュン)」、越前おろしそば・日本料理の「ありそ亭 青山」。前者は「ビスボッチャ」を営むオライアンが「ポストカフェ」を睨んで開いた飲食店、後者は福井県三国町に温泉旅館「荒磯亭(ありそてい)」を経営する雄島館が運営する。ほかに人気サロン「ビュートリアム」を営むエスエスモードが新ブランド美容室「ディフィーノ」を出店。福井県の情報発信地となる「南青山291」は県産物の展示販売や観光情報の提供、県企業の支援などを行う。

辻さんは「界隈はいい意味で“裏青山”という名称がつき、新しいショッピングゾーンができ、人が集まり始めている。人間が集まるのは広場であり、小道であり、路地である。“プラース事業”は当社内の呼び名で、“プラース”とは広場という意味。ショップの集まりがヴィレッジになればいいと考えている」と手ごたえをつかんでいる。

ありそ亭 青山

変貌する「骨董通り」は、どこへ向かうのか。大手資本の企業がショップや飲食店を出店する一方で、オーナーの強烈な個性が反映するショップが共存するこのエリアは、渋谷、原宿、西麻布に挟まれながらも、独自の大人のライフスタイルを貫いている街と言えそうだ。骨董店が少なくなっているものの、独自の佇まいは他の街にはない文化的な匂いを放っている。かつて“目利き”に長けた趣味人が足繁く通った骨董通りは、今日では最先端のトレンドを見極める大人が通い、働き、遊ぶストリートになった。

以前は、表参道~根津美術館を結ぶ南北のゾーンとは一線を画す商圏だった「骨董通り」だが、最近では両ストリートを結ぶ“毛細導線”に人気ショップや飲食店が点在することで、人の流れに面的な広がりが生まれ、広域青山商圏の一端を形成しつつある。「骨董通り」は静かな変貌を遂げながら、青山の先端ゾーンと化していく。

グラッセリア青山 グラッセリア青山
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