特集

多様なハコで時代の音楽ニーズに対応
渋谷ライブハウスの系譜

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■「屋根裏」に始まる老舗ライブハウス誕生の系譜

1975年、渋谷で最も古いライブハウス「屋根裏」がセンター街にオープンする。同年12月にはパンタ率いる頭脳警察がここで解散ライブを行い、1979年にはフリクションやリザードに代表されるパンク~ニューウェイヴ・ムーヴメント=「東京ロッカーズ」をドキュメントした伝説的な映画「ロッカーズ」にも登場した。1980年1月には、RCサクセションが4日間連続でライブを行い、それまでで最大の観客動員数を記録した。ライブハウス関係者は口を揃えて、1976年にオープンした「新宿ロフト」の影響力の大きさについて言及する。「屋根裏」は、大久保通りにあった頃の旧「新宿ロフト」と同様、狭くて汚くて危険だが、それ故に若者を惹きつける「磁場」としての魅力にあふれていた。

音楽だけに特化したライブハウスではなく、演劇やトークやパフォーマンスも行う小劇場としては、1969年、公園通りの山手教会地下にオープンし、津軽三味線の高橋竹山を輩出したことでも知られる「ジャンジャン」の存在も欠かせない。200人規模の「小バコ」としてアットホームな空間を提供し続けた「ジャンジャン」は2000年4月にクローズするが、そのラストを飾ったのは、やはりこの場所とは縁の深い矢野顕子だった。

1981年3月、「エッグマン」が、まだ人の流れも少なかった公園通りを上り切った現在地に、翌1982年には「ラ・ママ」が渋谷駅南口の現在地に出現した。いわゆる渋谷で老舗と呼ばれるライブハウスはこの時期までに出揃ったと言えそうだ。「ナイロン100%」「ライブ・イン」「テイク・オフ・セブン」、原宿方面では「クロコダイル」や「ピテカントロプス」が続々と誕生し、高円寺や新宿を起点としたパンクやロックの新しい波が、急速にユース・カルチャー化していく渋谷にも押し寄せるようになる。「エッグマン」は、レコード会社のコロンビアが経営している点でも、他のライブハウスとは成立の背景が大きく異なる。桑田バンドや山下久美子が出演したオープニングから、ブレイク前・後のポップ・アーティストをフックアップするメジャー路線を明確に打ち出し、やや「敷居の高い」ライブハウスとして知られてきた。

eggman La mama

一方、「ラ・ママ」は「ステージ・ハウス」と自ら銘打つように、80年代のライブハウスの多くがそうだったノンジャンルなエンタテインメント空間で、小劇場的なスタンスを今も脈々と受け継いでいる。アーティストとハコの双方が濃密なコミュニケーションを交わし、時にはハコ側がアーティスト側にダメ出しすることもある、人間臭い「昔気質」のハコという側面が強く、現在の渋谷のライブハウスの潮流から「ハズれている」とも認める。ちなみに「ラ・ママ」の初代社長は、ミスター・チルドレンを育て上げた人物としても知られている。

屋根裏 エッグマン エッグマン ラ・ママ ラ・ママ

■公園通りを軸とする独自のライブハウス力学

80年代「パルコ前交差点に立って公園通りを見上げると、そこには何か見えない一枚の『壁』が存在している」と言うアーティストが少なくなかった。80年代半ばから、原宿の「ホコ天」や1989年2月に放送開始された「いかすバンド天国(通称イカ天)」で発火したバンド・ブームに沸いた時期の数年間、公園通り沿いのエリアは音楽業界の人々から「ヴィクトリー・ロード」と呼ばれることもあった。センター街にある「屋根裏」からスタートして、スペイン坂を上った「テイク・オフ・セブン」、パルコ前交差点を越えて「エッグマン」~「渋谷公会堂」~「代々木体育館」と、人気と共にハコのキャパシティも海抜も一緒に上がっていくという、公園通りを軸とする「勝ち組」へのコースがあった。当時「聖地」だった武道館は別格として、明るく安全でクリーンなイメージが強い公園通りは、いわばメジャーへの橋渡しを約束する場所でもあったのだ。

現在でも、「エッグマン」周辺は、日中はティーンが、夜は大人が足繁く通う人気の一帯だ。実際「エッグマン」が入居するカンパリビルには「ラ・ボエム」「ゼスト」「モンスーン」と、グローバル・ダイニング系のレストランが集積しており、周囲にはファッション系のショップも多い。80年代初頭、モヒカン刈りと安全ピンのピアスで武装したパンク少年たちは公園通りを避けて裏路地を歩いていたという。なお、「屋根裏」は1986年8月に一度クローズし、下北沢に移転、10年後の1997年9月にパルコ・パート3向かいの現在地に渋谷「屋根裏」として再オープンした。「新宿ロフト」「屋根裏」、屋根裏と経営母体が同じ「サイクロン」、それらともリンクする下北沢のパンク~ハードコア系=「男気系」ライブハウスと、公園通り沿いのエリアとは地理的にも微妙に一線を画しているのが特徴的だ。

屋根裏
屋根裏 屋根裏

パルコ系の「クラブ・クアトロ」がセンター街奧の現在地にオープンするのは1988年6月。1~3階がレコード・ショップの「WAVE」、その上がクアトロという当初のフロア構成からもわかるように、輸入CDショップの増加と共にマニアックで情報量の多い洋楽志向の音楽ファンが増えてきた状況を受け、それまでのライブハウスとは異なる新しい層を開拓した。「渋谷系」日本人アーティストを始め、数多くの海外アーティストを招聘し、「中バコ」クラスのスタンダードを作り上げた功績は大きい。

クラブ・クアトロ
クラブ・クアトロ

1991年2月、円山町のホテル街にある通称「ランブリング・ストリート」に、1,000人のキャパシティを誇るスタンディング・スタイルの大型ライブハウスとして「ON AIR」(現在の「Shibuya O-EAST」の前身)が誕生する。公園通りが渋谷の「昼」の顔だとすれば、平日昼間は人通りが少なく、週末の夜ともなればクラブ密集地帯の様相を呈し、若者が群れをなすこの界隈は、渋谷の「夜」の顔とも言える。1993年には、「ON AIR」向かいに「ON AIR WEST」がオープン、翌1994年には「ON AIR」は「ON AIR EAST」と改名した。川崎「クラブ・チッタ」のような先例はあったが、体育館然としたウェアハウス的大型スペースとして広く認知された。2000年には、1,500人という渋谷最大のキャパシティを誇る「SHIBUYA-AX」が代々木公園敷地内に完成し、キャパシティの選択肢はさらに広がった。

SHIBUYA-AX

■顧客志向を高める渋谷ライブハウスの未来形

2001年秋、「エッグマン」は「クラブ・エッグサイト」としてリニューアルし、DMBQやズボンズをオープニングに迎え、よりインディ・ロックにフォーカスしたが、2003年10月には、再び名前を「エッグマン」に戻した。さらに2003年12月からは、ディスコ、クラブ、カフェを総合的にプロデュースするリノベーション・プランニングや、クラブ業界のクリエイティヴ・ディレクター、プロデューサーらと手を組み、ライブハウスとクラブの境界を壊した新しいスペースのあり方を模索中だ。ハコをプロデュースしたり、仕掛ける側の人種がミックスされているのがこのプロジェクトの特長だと言う。アンダーグラウンドのままで、伝えたい人だけに伝えるのではなく、より広範囲の層に訴えかけたいというオープン時からの姿勢は変わってない。BS日テレで毎週ライブ番組を発信する予定もあるというところからも、それはうかがえる。

今までもライブハウスとクラブを組み合わせたスペースは存在してきた。代表的なところでは、1996年に渋谷円山町にオープンした「クラブ・エイジア」、2003年12月にクローズした新宿「リキッド・ルーム」、2002年12月に新木場にオープンした「スタジオ・コースト/ageHa」がある。しかし、その多くはイベンターやブッカーのディレクションによって180度内容が変わるというハコ貸し的な傾向が見られ、単発的なイベントやパーティがほとんどであることも確かだ。エッグマンの桑江さんは「毎日1つのハコで2つの事業を運営するというこのパッケージが完成すれば、そのノウハウを他のライブハウスでも適用できるはずだ」と、未来を語ってくれた。

旧「ON AIR EAST」は2002年7月に一旦クローズし、2003年12月に「Shibuya O-EAST」として再スタートを切った。1,300人のキャパを持ち、イベントによって2箇所のエントランスを切り替えできる「Shibuya O-EAST」、200人のキャパを持つ「Shibuya O-CREST」、ジャミロクワイのジェイ・ケイ本人がプロデュースし、青山「ブルー・ノート」のように食事を楽しみながら音楽を楽しむ大人のコンサート・プレイスを目指す「Duo Music Exchange」と3種類のライブ・スペースを擁するもので、映画業界におけるシネマ・コンプレックスを思わせる作りだ。中でも「Duo Music Exchange」では今年1月6日、クリストファー・クロスがこけら落としのライブを開催した。「『Shibuya O-EAST』自体には、特にハコのカラーを持たせてはいない」と、ブッキング・チーフの道古さんは言う。「同系列の『O-WEST』や『O-NEST』を含めた複数の空間を使いながら、アーティストの人気度によってキャパを選択し、次のステップに進めるような流れを作っていきたい」と加える。

ライブ・スペースとしての「Shibuya O-EAST」最大の個性は、何よりもフロアが横長であることだ。これにより、どのエリアからもステージが見やすく、圧倒的にステージとの距離が近いというアドバンテージが得られる。500人程度の動員数でも、この空間なら満杯になってるように見えるという別の理由もある。空間がスカスカになると、自然にアーティストも観客もテンションが下がるのはライブの「生理現象」だからだ。「横長で奥行きのない方が好まれる傾向がある」ことを踏まえた、限られた敷地の中で最も効果的な空間配置が、これだったのだろう。建築はフィリップ・スタルクが設計したアサヒビール吾妻橋ホールで知られるグローバル・エンヴァイロンメント・シンクタンクが、インテリアは関西をベースに活動するインフィクス(代表=間宮吉彦)が手掛け、ディティールにもこだわっている。90年代的なライブハウスのスタンダードを作った「ON AIR EAST」の装飾を削ぎ落とした内装とは逆だ。「Shibuya O-East」にはレッド・バー、ブルー・バー、イエロー・バーと3つのバーが付属し、レッド・バーは独立したバー営業も可能だ。コインロッカーなどの設備も充実している。道古さんは「ライブハウスの原点に戻り、よりお店っぽい機能を持たせ、お客さんに対するホスピタリティを重視した。チケットをもぎったら、後はお客さんをほったらかしにするような、従来のライブハウスの習慣から脱却したい」と話している。

Shibuya O-EAST/O-WEST/O-CREST/O-NEST

現在、広域渋谷圏には約20軒のライブハウスが存在する。過当競争だと言う人もいる。しかし、経営難が原因でつぶれたライブハウスは意外に少なく、息の長いハコが多いのも特徴だ。東京のライブハウス人口が集中し、互いがしのぎを削りながらも「共存」できる数少ないエリアでもある。しかし、「エッグマン」「O-East」のリニューアル戦略を見ると、既存のライブハウス的な「価値観」だけでは将来厳しくなるという危機感も感じられる。間口を広くする、クラブの人種も取り込むのはもちろん、明治通り沿いの「クロコダイル」や「ブルー・ジェイ・ウェイ」のように、青山「CAY」が先鞭をつけたレストラン・バーとライブハウスのミックスも今後さらに増えていくと予想される。2002年に宇田川町に誕生した「ラ・ファブリック」も「フーディング」というパリ発の夜遊びスタイルを全面に打ち出し、音楽と食を両立させたアミューズメント・スペースを提案した。こうしたコラボレーション増殖は、もともと渋谷のライブハウスのほとんどが、風営法対策もあり飲食業として営業許可を取っていることも背景にありそうだ。音楽のダウンロードやコピーなど影響でCDの売り上げが低迷する状況が、逆にライブ・イベントの希少価値を高め、多様化を後押ししているとも感じ取れる。他の消費シーン同様、ライブハウスにも「顧客志向」の波が押し寄せている。

クロコダイル ブルー・ジェイ・ウェイ ラ・ファブリック
Shibuya O-EAST Shibuya O-EAST Shibuya O-EAST:レッドバー
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