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渋谷の「骨格」が消える ターミナルデパート「東急東横店」ヒストリー

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 100年に一度と言われる大規模再開発が進み、高さ230メートルの超高層施設「渋谷スクランブルスクエア」の開業など華々しいニュースも話題を集めた「令和元年」の渋谷駅周辺エリア。新たな街のランドマークが生まれる一方、惜しまれつつ、この春85年の歴史に幕を閉じるのが、駅直結のデパート「東急百貨店東横店(以下、東急東横店)」だ。

 「85年の歴史」の言葉が持つ重みは、年月の長さだけではない。かつて「東横デパート」と呼ばれた関東初の本格的ターミナルデパートは、デパ地下人気の先駆けとなった「東横のれん街」や劇場などの文化施設など、渋谷の骨格を成す中心的存在としてさまざまな物語を紡いできた。3月31日でその歴史にピリオドを打つ東急東横店の歴史を振り返る。

「食堂」を原点とするターミナルデパートの始まり

 渋谷駅に直結するターミナルデパートとして1934(昭和9)年に開業した東急東横店。増築を繰り返し、最初の館となった「東館」をはじめ、長らく3つの館で営業を続けてきた。1954(昭和29)年に開業した「西館」はハチ公前広場に面し、今ではその壁面を、旬のタレントやミュージシャンらを起用した大手企業などの屋外広告が彩る渋谷駅の「顔」にもなっている。1970(昭和45)年には、現・西口ロータリー側に「南館」がオープンし、40年以上にわたり3館体制で営業していた。

 駅周辺を中心に進められる再開発に伴い、東館が閉館したのは2013(平成25)年のこと。同年3月16、東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転が始まり、東横線渋谷駅が前年の2012(平成24)4月に開業した「渋谷ヒカリエ」直結の地下に移動。渋谷-代官山間も地下化したことで駅舎の一部としての役目を終えた東館は、相互直通開始から2週間後の3月31日に78年間の歴史に幕を下ろした。

 今ではいくつもの屋外ビジョンに囲まれ、多くの人が行き交う光景が日本随一の観光スポットの一つにもなっているスクランブル交差点もまだ存在しなかった戦前、90年以上前の1927(昭和2)年8月。東京横浜電鉄が渋谷-神奈川間を結ぶ新路線「東横線」を完成させた。そこから少し遅れ、同年暮れの12月25日、渋谷駅2階に「東横食堂」がオープン。後のターミナルデパート構想につながり、東急東横店の「原点」となる食堂の誕生だ。

「東横食堂」を描いたイラスト。白木正光編著「大東京うまいもの食べある記」(丸ノ内出版社、昭昭和8年4月30日発行)より

 1923(大正12)年に起きた関東大震災後、都心部に比べて被災が軽微だった田園調布、大岡山などの郊外へ移住する人が増加。1927(昭和2)年に神奈川と渋谷を結ぶ東横線が開通したことで、都心と郊外の玄関口となる東横線渋谷駅のターミナル駅としての歩みが始まった。

 東西を結ぶ全長約24キロの新路線が誕生し、多くの利用者が降り立つようになった渋谷駅にできた広さ165平方メートルの食堂では、ビフテキやタンシチュー、オムレツなどにご飯やパン、コーヒーがセットで付く洋食中心のメニューを提供。食堂は1929(昭和4)年、2倍近くまで増床し、2年後の1931(昭和6)年4月には、駅1階に瓶缶詰や総菜などの食品を扱う「渋谷マーケット」も開業した。

東横百貨店と東横線渋谷駅/1934年 画像提供=東急(株)

 東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄専務の五島慶太は、東横線開通から5年後の1932(昭和7)年、「東横百貨店」の建設を決める。江戸の呉服店から発展した松坂屋や三越、高島屋などの老舗が主流の百貨店業界の中で、畑違いの鉄道会社から新規参入。百貨店といえば日本橋、銀座という時代、西側の渋谷に百貨店を構えるとういう大きな挑戦だった。そうした中、1934(昭和9)年11月1日、東横線沿線居住者をターゲットとした東横百貨店が開業した。

戦後復興の象徴にもなった「ひばり号」があった時代

 渋谷初だけでなく、関東初の私鉄ターミナルデパートとして誕生した東横百貨店は、地上7階、延べ床面積1万1750平方メートル。設計は銀座・和光(旧服部時計店)」を手掛けた渡辺仁が担当しヨーロッパ建築に影響を受けたモダンな「白亜の建物」が駅のシンボルとなった。

開業当時の東横百貨店(東館)/1934年 画像提供=東急(株)

 開業に先立ち五島は、大阪・梅田駅の「阪急百貨店」に社員を派遣し、デパート経営のノウハウを学んだという。東横百貨店では、「便利」「良品廉価」「誠実第一」をモットーに掲げ、郊外に家を持つ沿線居住者に向け、営業は21時まで・年中無休とした。

 1938(昭和13)年12月には「すり鉢」状の低い立地ならではの「地上にある地下鉄駅」として、渋谷駅に初の地下鉄駅となる銀座線渋谷駅が誕生し、駅舎として「玉電ビル(現・東横店西館の4階以下)」の3階・4階を使用。翌年6月には、同ビル2階に玉電渋谷駅が開業し、国鉄、東横線、井の頭を含む計5路線の交通結節点となるターミナルデパートの原型が完成する。

 1940年代に入ると、デパートにも戦争の影響が出始めるようになる。

白亜の建物が空襲で焼け、黒くすす汚れている。画像提供=東急(株)

 物資や商品が不足し、軍関係会社などへの売り場供出などが続き、売り場は縮小。戦況が日増しに悪化する1945(昭和20)年5月25日夜の東京大空襲では、渋谷一帯に焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、東横百貨店は1階を除き全焼した。終戦から1カ月がたった9月1日には、被害を受けたビルの1階を売り場として復旧し、再建への道を歩み始める。

 本格的に復興が進む1951(昭和26)8月には、子ども向けの空中ケーブルカー「ひばり号」が誕生した。山ではない都心部の上空に浮かぶ「ロープウエー」は、戦後復興を象徴する渋谷の光景として話題を集め、山手線をまたぐ形で、百貨店(東館)と、当時まだ4階建てだった玉電ビル(西館)の屋上を往復。周囲に高層ビルがない時代、三軒茶屋辺りまで見渡せるパノラマビューが人気を博し、乗車待ちの行列が途切れなかった。しかしその歴史は2年余りと短く、1953(昭和28)年、玉電ビルの増築決定を受け、惜しまれつつ撤去された。

「東横のれん街」「東横ホール」など、文化発信の原点が生まれる

 渋谷で最も高い7階建てのビルとして営業を始め、戦後復興でも活気を取り戻す一翼を担った同店は、当時老舗百貨店がしなかった新たな取り組みにも積極的に挑んでいく「チャレンジャー」だった。

 中でも、その後のデパート業界に大きな影響を与えたのが、1951(昭和26)年10月、1階に開業した「東横のれん街」だ。日本橋や銀座の名店や老舗を、地の利のなかった渋谷に集めるという画期的かつ前代未聞の試みは、門前払いから始まったものの、営業担当者らが時間をかけ誘致に成功。開業後は本店に勝る売り上げとなった老舗も多く、独自の発想に打って出た食品街は大成功を収める。渋谷発のこの新しい販売スタイルは、その後の「東急フードショー」、さらに今日の「デパ地下」人気へとつながっていく。

開業当時の東急会館(西館)/1954年 画像提供=東急(株)

 「ひばり号」撤去の理由にもなった1954(昭和29)年11月の玉電ビル増築後は、11階建ての「東急会館(東横店西館)」が完成。ル・コルビュジェを師とする建築家・坂倉準三が設計を手掛け、9階~11階には1000席を超える「東横ホール」が誕生した。歌舞伎や落語、芝居、ロックコンサートなど多彩な芸能に対応する万能劇場が駅直上にできたことで、ホール落語のはしりとなった「東横落語会」などの人気演目も生まれた。

東横ホールの客席(現在の西館9階)/1954年 画像提供=東急(株)

 同劇場は1985(昭和60)年に閉鎖されるが、渋谷には同劇場の誕生以降、「東急百貨店本店」(1967年開業)隣に1989(平成元)年9月、日本初の大型複合文化施設として「オーチャードホール」や「シアターコクーン」などを擁する「Bunkamura」がオープン。渋谷ヒカリエにも客席が3フロアを占める大型のミュージカル専用劇場「東急シアターオーブ」を開き、渋谷エリアの文化発信をけん引してきた。

竣工時の「東急文化会館」/1956年 画像提供=東急(株)

 東横百貨店の売り場は、東急会館の開業で約4万平方メートルにまで増大し、巨大な売り場面積を誇るターミナルデパートとして渋谷駅にしっかりと根を下ろす。五島と坂倉が仕掛けた「渋谷総合計画」はその後、1964(昭和39)年の東京五輪開催にかけて、1956(昭和31)に現在の渋谷ヒカリエがある場所に「東急文化会館」(2003年閉館)を開業するなど、ターミナル構想を実現。東横百貨店は、1958(昭和33)年に白木屋が東横百貨店を合併し社名を「東横」に変更後、渋谷に本店が完成した1967(昭和42)年、社名・店名とも「東急百貨店」に改称した。

 渋谷の「文化史」を語る上で、東急と西武の熾烈(しれつ)な開発競争も外せない。当時の西武・セゾングループは1968(昭和43)年に宇田川の映画館跡地に「西武百貨店渋谷店」を出店。1973(昭和48)年には、区役所通り(現・公園通り)中腹に「渋谷パルコ」を開業し、「パルコ劇場(旧・西武劇場)」などの文化事業で渋谷に若者文化を定着させ、東急グループと競争しながらも、共にファッションや音楽、映画などのカルチャーが息づく今日の「渋谷」をつくる骨格を築いてきた。

渋谷の「シンボル」が消える日 のれん街・フードショーは継続、「遺伝子」残す

 渋谷を象徴する存在として愛され続けてきた東急東横店は、7年前に閉館後、取り壊された東館に続き、3月31日に西館・南館も営業を終了することで、その長い歴史に幕を下ろす。

 東館の閉館に伴い、「渋谷マークシティ」地下1階に移転した「東横のれん街」は現在、同フロアに残った「東横店 東急フードショー」と通路を挟んでつながり、大型のデパ地下空間を形成しているが、いずれも3月31日以降も営業を続ける。

 東横のれん街は発祥の地である駅東側に戻り、4月16日、渋谷ヒカリエ内の商業施設「ShinQs」地下2階・3階に移転オープン。「東横」の店名もそのまま継承することになった。「東横店 東急フードショー」も「渋谷 東急フードショー」に名称を変え、現・東横のれん街跡に7月、拡大オープンする予定だ。

 「遺伝子」を引き継ぐのは、移転する既存の地下食品街だけではない。すでに記したように、駅周辺の大規模再開発の一環で開業した渋谷ヒカリエには、「劇場」の遺伝子を継ぐ巨大劇場「シアターオーブ」があり、ブロードウェーミュージカルの日本公演の聖地にもなっている。

 旧東横線渋谷駅跡に昨年11月に開業し、最上階の展望施設なども話題を集める渋谷スクランブルスクエア東棟にも、地下2階と1階に新たな食品街「トウキュウ フードショー エッジ」がオープン。そのほか、同フロアを含め、東急百貨店が「最旬」「新しい」などにこだわり仕掛けるファッションやコスメなどの自主編集売り場が5フロア・計約5250平方メートルにわたり売り場が占める。

 渋谷駅周辺では今後、2027年度をめどに大規模再開発が完了する。今年は、1月3日に東京メトロ銀座線の新駅舎・ホームが供用を始めたのを皮切りに、6月1日にはJR埼京線も山手線と並列する形でホームを移設。営業を終える東急東横店南館跡付近には、渋谷スクランブルスクエアの「西棟」が誕生する予定だ。

 沿線に住む人々の暮らしの利便性を高めるため、「便利よく、良品廉価、誠実第一」をモットーに開業した「東横デパート」の歴史は、建物が姿を消した後も形を変え渋谷に根付き続ける。

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